元島民の体験記 高橋高治さんの体験記

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色丹島の「風景」について

 色丹島で生まれ、チボイというところで28年間過ごしました。
 戦前、色丹島は、日本の十八景のうちに含まれていたそうです。色丹島東海岸沖の小さな島には、エトピリカ、ケイマフリ、オロロン鳥、ウトウ、ウミウなどが沢山いまして、夕方餌をとって巣に帰ってくるときなどは、海鳥達で空が真っ暗になることもありました。
 色丹島は本当に良い島でした。海は荒かったけど、いたるところに良い港がありました。また、北海道では900メートル級以上の所に分布しているイワツツジなどの高山植物が、色丹島では、150メートルぐらいの崖の所に植生していました。キンロウバエ、ギンロウバエ、シャクナゲ、ガンコウランなどの高山植物も沢山ありました。
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色丹島の「産業」について

 色丹島では、天然もののノリ、フノリ、ギンナンソウを採っていました。60センチ×120センチぐらいの大きさのノリを多いときで6千枚くらい採りました。沢山採れるだけではなく、本当においしいノリで、1枚26銭ぐらいで売れ、当時(昭和10~15年)は生活するのに充分でした(10円玉1枚で60キログラムの米1俵と醤油を1斗樽1つ買って20銭のお釣りがきました)。
 シャコタンには、当時東洋一といわれた捕鯨場がありました。昭和10年、色丹島だけで268頭捕れたという記録が残っています。最盛期には捕鯨場や缶詰工場などで働く人だけで少なくても千人ぐらいはいたと思います。鯨は、骨や内臓は肥料になるなど、全く捨てるところが無かったです。幼少のころ捕鯨場に肉をもらいに行くと、とても一人では担げないような大きな鯨肉の塊を「もっていけ」と工場の人にからかわれたものです。「おじさん、とてもじゃないけれど持っていけないよ」というと大きな鯨肉の塊から切り分けてくれたものです。
 色丹島のシャコタンの神社の鳥居は、92尺(28メートル)のながすくじらの下あごの骨でしたよ(奥様)。


「四島交流(ビザなし交流)」について

 先日、ビザなし交流の意見交換会で「ともかく古い話だけど、北方領土は1855年の日魯通好条約、1875年の樺太千島交換条約で、話し合いで紳士的に決められた領土であるが、当時のソ連は、戦争が終わって半月も経ってから、北方領土を占領した。そういった、歴史的な経緯をもっと勉強して知ってほしい。」という発言をしましたところ、日本人側から、「今さら歴史を調べると言っても話になりません」という意見が出まして、とてもがっかりしました。
 ビザなし交流は、領土の返還を前提とした交流でありますから、ロシア人と仲良く交流することは良いのですが、領土の問題について、きちんと主張するべきであると思います。
 また、話し合いで紳士的に決められた領土が、戦争が終わってから不法に占領されたという歴史的な経緯をもっと勉強しなければならないと思います。

 

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